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歴史

【毎日新聞】 復活した朝鮮通信使船を見に行った

1: 仮面ウニダー ★ 2023/11/13(月) 12:31:34.54 ID:VT/n97Vo
 韓国南西部の全羅南道(チョルラナムド)・木浦(モッポ)にある国立海洋文化財研究所。
海に面したこの研究所には、時代をタイムスリップしたかのような1隻の木造船が係留されている。

 長さは34.5メートル、幅は9.3メートルで「朝鮮通信使船」という看板が掲げられている。
同研究所が21億4000万ウォン(約2億3500万円)を投じて2018年に復元したものだ。

 朝鮮通信使は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で途絶えた国交を回復する目的で始まった外交使節団。
1607年から1811年までに計12回派遣された。江戸時代における日韓の友好関係を示すシンボルとなっている。
17年には国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、日韓の団体が共同で申請した朝鮮通信使に関する歴史資料を
「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録した。

 船へと案内してくれたのは、同研究所の洪淳在(ホン・スンジェ)学芸研究士(51)。洪さんは「3年がかりの作業でした。
残された文献や絵画をもとに設計し、造船工学的な分析を地道に重ねました。
実際の模型や3Dモデルを作り、材料となる木材にもこだわって、ほとんど当時と同じ姿に再現しました」と笑顔で振り返った。

 船内は、思っていたよりも小さかった。朝鮮通信使の歴史やその経路、船を再現した経緯が書かれたパネルが展示されている。
洪さんは「普段は船上博物館。一方でエンジンもしっかりと装備しているので、市民を乗せる遊覧ツアーも実施しています」と語っていた。

 木浦で若き日々を過ごした金大中(キム・デジュン)元大統領(1924~2009年)。
その人生に触れる取材を終えて、少し足を伸ばしたのは、この船が8月に釜山から長崎県対馬へと渡ったからだ。
直線距離だと約50キロ。現地では、通信使の「正使」が「国書」を日本側に手渡す行事も行われ、
「1811年から212年ぶりに朝鮮通信使船が日本に入った」と報じられた。
ー中略ー

 鄭さんは、昨年5月に就任した尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が日韓関係の改善を積極的に進めた決断も率直に評価していた
。そして、こう言葉を継いだ。「両国が歴史和解を成し遂げて、信頼を深めながら、
互いの繁栄と東アジアの平和的発展を引っ張っていけばよい。
両国の国力に差がある垂直的な関係から、国力が均衡した水平的な関係に変わった今ならできるのではないか。
こんなチャンスは二度とないよ」

 最後に歴史を正しく読み解くために大切な視点や手法についても尋ねた。
「やはり、自分たちの歴史だけではなく、相手の歴史も知ることが大切。そうした作業を重ねながら、客観的に自分と相手を見つめる。
だから私は、日本人には韓国の歴史を、韓国人には日本の歴史を話すようにしている。両国にまたがる話もしますね」。
日韓の歴史共同研究などで中心的な役割を果たし、日本の駐在員たちへの歴史講座も長年、
地道に続けてきた鄭さんの発言にはうなずくところが多かった。

 先月22日、ソウル市内で開かれた日韓交流おまつり2023で、「劇団静岡県史」が披露した「徳川家康公と朝鮮通信使」
という演劇を鑑賞した。朝鮮通信使の道のりが、スクリーンに映し出される。
ソウル、釜山、対馬、下関、神戸、大阪、京都、彦根、名古屋、静岡、小田原、東京(江戸)。
歴史の奥深さに加えて、空間的な広がりを力にできるのではと感じた。

 鄭さんが「両国には朝鮮通信使に関する資料が、各地に多く残されている。
日韓国交正常化60周年となる25年に大規模な展示会を両国で開き、
そこに両国首脳が訪問すれば互いの友好を実感できる機会となるはずだ」と話していたのも思い出した。

 日本では衆院解散・総選挙が視野に入り、韓国では来年4月に総選挙がある。
その結果は日韓関係にも影響を与えるだろうが、朝鮮通信使をめぐる交流が、政治の変化に左右されることなく
「善隣友好」を支えていくことに期待したい。【ソウル支局長・坂口裕彦】

11/11(土) 10:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/6c423c70b53db1b3db46b6655c33c0405e336dfb

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【韓国】日本の戦犯企業へ連れていかれた93歳女性「日本に行けば学校にも通えて金も稼げる」という言葉にだまされた

1: 動物園φ ★ 2023/11/10(金) 09:27:32.57 ID:2Trus7+w
11/10(金) 7:19配信 ハンギョレ新聞

 幼くして日本の戦争犯罪企業へと連れていかれ、死の恐怖をあじわったチョン・シニョンさん(93)の損害賠償請求訴訟の一審判決が、提訴から4年を経て言い渡される予定だ。

 光州(クァンジュ)地方裁判所民事13部(イム・テヒョク裁判長)は9日、チョンさんが三菱重工を相手取って起こした損害賠償請求訴訟の弁論を終結し、来年1月18日午前9時50分に判決を下すと発表した。

 チョンさんは9日、(社)日帝強制動員市民の会の会員たちの助けを借りて、法廷に証人として出席した。杖をついて裁判所に入ったチョンさんは、「杖は私の脚だよ」と冗談を言うなど、余裕のある様子だった。

 1944年春に羅州初等学校を卒業したチョンさんは同年5月、「日本に行けば学校にも通わせてくれるし、金も稼げる」という言葉にだまされ、三菱重工名古屋航空機製作所に強制動員された。その時、羅州(ナジュ)から共に動員された人の数は、ヤン・クムドクさん(94)をはじめ25人だという。

 チョンさんは「どんな仕事をしたのか」と原告側弁護士に問われ「アルミの板を飛行機の下に置く仕事をした。食堂の掃除もした」、「名古屋に着いた時に名古屋城を見学させてくれたりもしたが、後にはそのようなことはなかった」と話した。

 チョンさんは「たまにお金をもらったが、氷を買って食べたらひとつも残らなかった」、「ご飯を食べ切らずに捨てる人がいたので、とてもお腹がすいていた時は友達と残飯をあさったりもした」と被害を説明した。

 1944年12月7日に発生した東南海地震では7人の友人が死亡したとも述べた。チョンさんは、「爆撃だと思って防空壕に逃げた。外にいた7人の友達が死んだ」、「私は学校で歴史の勉強をしていて先生と運動場に逃げたが、地面が割れており、辺りが水であふれていた」と語った。

 チョンさんは「米国の空襲の時は布団を持って犬小屋ほどの大きさの防空壕に逃げ込んだ」、「寮が焼夷弾にやられたので、はしごで火を消しに上ったこともある」と話した。

 三菱重工側の弁護人は尋問を行わなかった。イム部長判事は、「出てきてくださり感謝もうしあげる。これで審理手続きは終了した。弁論を終結して判断することにする」と述べてこの日の裁判を終えた。

 チョンさんは口頭弁論の終了後、報道機関のインタビューに応じ、「(裁判で)言いたいことは多いが、全部は言えなかった」、「安倍元首相は韓国の人々を無視したが、岸田首相はそうでなければよいと思う」と訴えた。

 日帝強制動員市民の会は、2012~2014年に起こされた3件の勤労挺身隊訴訟のうち1件は最高裁で勝訴判決を勝ち取り、2件は最高裁で塩漬けになっていると述べた。日本の戦犯企業11社を相手取って起こされた集団訴訟は、2019年の9件は原告が54人、2020年の6件は原告が33人おり、現在、光州地裁で進められている。

https://news.yahoo.co.jp/articles/a42c8269105cad95c5ca2e96d84fd814de0bb940

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【社会】朝鮮人虐殺めぐる官房長官の「記録見当たらない」発言、野党が追及

1: 動物園φ ★ 2023/11/09(木) 21:43:31.69 ID:2QsgaKSr
11/9(木) 20:33配信 朝日新聞デジタル

 9日にあった参院の委員会で、関東大震災時の朝鮮人虐殺をめぐって松野博一官房長官が8月30日の記者会見で「政府内に事実関係を把握できる記録が見当たらない」と発言したことについて、野党議員から質問が相次いだ。

 内閣委で立憲民主党の石垣のりこ氏は、自民党が野党だった2011年7月27日、松野氏が衆院文部科学委で教科書検定問題について質問した際に「朝鮮半島出身者に対する殺人事件が多数発生した」と述べ、政府に「被害者が何名と認定したか報告していただきたい」と求めていたと指摘。石垣氏は「(虐殺を)事実として発言している。いまの答弁と矛盾するのではないか」と追及した。

 松野氏は「私の質問は、教科書検定について教科書の内容を引用したもの。政府見解は『裁判記録がなく、現時点から把握しようとしても困難』ということだった。当時の政府見解と、私の記者会見での発言は矛盾しない」と答えた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/e366cb65bd98c30c60ff4b52d5e632519465480c

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【文禄の役】 日本軍が朝鮮の人々を捕らえ、首を取り鼻を削いだ蛮行

1: 仮面ウニダー ★ 2023/10/11(水) 04:33:12.85 ID:w2Kwltvq
 大河ドラマ「どうする家康」では、ついに文禄の役がはじまった。文禄の役では、日本が朝鮮半島に攻め込むと、
朝鮮の人々を捕らえて連行した。その辺りを詳しく確認することにしよう。

 日本における戦争では、乱取り(人や物資の強奪)が軍事的な慣行になっていた。
しかし、日本軍が朝鮮半島に攻め込んだとき、日本軍による乱取りは禁止が命令された。
秀吉は長く朝鮮を支配するため、逆に朝鮮人の還住を推し進めたのである。

 とはいえ、秀吉の強い決意にもかかわらず、乱取り禁止の方針は将兵に無視され、戦時中の朝鮮半島各地で乱取りが行われた。
次に、その実態をもう少し詳しく確認することにしよう。

 文禄元年(1592)、日本軍が朝鮮半島に上陸すると、平塚滝俊(常陸佐竹氏の家臣)が
肥前名護屋城(佐賀県唐津市)で留守を務める小野田備前守に書状を送った(「秋田県立公文書館所蔵文書」)。

 滝俊の生没年や出身地は不明であるが、佐竹氏家臣団の中では、中級クラス以上の地位にあったと考えられている。
その書状には、乱取りの一端が書かれているので、次に関係部分を示しておこう。

 高麗で二・三の城を攻め落とし、男女を生け捕りにして送ってきた。
(朝鮮人の)首を積んだ船があるようだが、私は見たことがない。男女を積んだ船は見た。

 内容は、朝鮮半島で捕らえた男女を日本に送ってきたことを示しており、現地で日本軍による乱取りを行った証になろう。
朝鮮人の首を積んだ船もあったようだが、滝俊は見たことがないという。
朝鮮人の首とは、日本の将兵が軍功の証として、日本へ送ったものである。

 そもそも敵兵の身分がわからないうえに、おびただしい分量になっただろうから、首実検が正確に行われたのか疑問である。
首は数だけでなく、敵兵の身分(大将格の首は価値がある)も重要だった。

 敵兵の首を取るのは序の口で、朝鮮半島では日本軍により残酷な行為が行われた。
慶長3年(1598)10月に泗川新城で戦いが行われると、島津軍は明・朝鮮の連合軍を相手に大勝利を収めた。
その際、城の外に大きな穴を掘って、討ち取った敵兵33,700人を埋めたという。

 そして、その死体から鼻だけを削ぎ取り、塩漬けにして日本に送ったのである(『島津家記』)。
敵兵の耳や鼻を削いで、持ち帰る際に塩漬けにしたのは、腐敗を防止するためだったと考えられる。

 本来、軍功を証明するには、敵兵の首を持ち帰るのが普通だった。しかし、首は非常に重たかったので、
首の代わりに耳や鼻を削ぎ取って持ち帰ることもあった。
特に、朝鮮出兵で持ち帰った耳や鼻を供養したのが耳塚(鼻塚)であり、京都市東山区の豊国神社前にある。

 このように、日本軍は朝鮮半島で数々の蛮行を行ったが、このことがかえって朝鮮の人々の反抗心を煽ることになり、
最終的に撤退せざるを得なくなったのである。

 『本山豊前守安政父子戦功覚書』は、加藤清正の配下にあった本山豊前守安政父子の朝鮮半島における
軍功を書き残したものである。同書には、「男女生子も不残撫切に致し、鼻をそぎ、其の日々塩に致し」と記されている。

 つまり、安政は男女や生まれたばかりの赤ん坊も残らず撫で切りにし、鼻を削いで毎日塩漬けにしたというのである。
もはや戦闘員・非戦闘員を問わず殺戮したので、その数は一度に20,000~30,000に及ぶこともあった。

 なお、このとき取った鼻が日本に持ち帰られ、先述した鼻塚に埋葬されたのである。
渡邊大門

10/10(火) 5:00
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/cb846aee9c74f9fbb29277edc8bfdf159982c9e3

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【ハンギョレ】 1500年前の日本の関西、朝鮮半島の先祖たちが住む場所だった

1: 仮面ウニダー ★ 2023/10/10(火) 06:54:13.04 ID:JEv+ZqOW
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全羅南道咸平礼徳里にある新徳古墳の1990年代の調査時の姿。前方が四角で後方が丸い古代日本特有の前方後円墳だ。
古墳の各所に石を積んだ跡(葺石)が見え、周囲を溝で囲む日本式の前方後円墳の典型的な姿をそのまま示している
=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 最近の韓国人が最も多く訪れる海外の観光地の1つが、大阪がある日本の関西地方だ。
日本で最大規模のコリアタウンがあることでも有名なこの地域について、多くの韓国人は、20世紀初め、
植民地となった祖国を離れた多くの朝鮮人が生計のために定着したところだと認識している。

 しかし、歴史的な真実は、関西に刻まれた古代の先祖の驚くべき足跡を伝える。『続日本紀』の8世紀初めの人口調査記録によると、
1300年前の関西地方の中心だった南部の奈良盆地に住んでいた人の80~90%が百済系移民だった。
それを立証するのが、関西地方に5世紀後半から登場する百済特有の墳墓の様式である横穴式石室墳で、
6世紀まで爆発的に増加し、高安などの地域に「1000個の墓」という意味の千塚古墳群が雨後の筍のように登場する。
一部のエリートの墓は王陵級であり、非常に大きいうえ、銅鏡、鉄製短剣、刀、金のイヤリング、玉・ガラス製品などが出土し、
百済と馬韓系統の住民と支配者の存在を示している。未発掘の古墳は数百基に達し、
関西地方だけでも少なくとも1000基を超える百済系の古墳群が造成されたと推定される。
歴史考古学者の石渡信一郎氏は
「千塚と呼ばれる巨大な墳墓の主人公が、朝鮮半島西南部出身の渡来人とその子孫であることを考慮すれば、
紀元後475年から600年までの125年間に、少なくとも100万人が朝鮮半島から日本列島に渡ってきただろう」と推定した。

 こうした事実は、米国で研究中の3人の考古人類学者が、韓国と日本で刊行された膨大な考古学と歴史学の刊行物の
書誌情報をもとに分析・整理した学術書『渡来人の考古学と歴史』(周留城出版社)に出てくる内容だ。
米国オレゴン大学のイ・ソンレ考古学名誉教授、オレゴン大学のメルビン・エイケンス人類学(考古学)名誉教授、
英国ダラム大学のジナ・バーンズ日本学名誉教授が共同で執筆し、韓国伝統大学融合考古学科のキム・ギョンテク教授が
翻訳して出版したこの本は、紀元前1000年以前の無文土器時代から紀元後7世紀の三国時代までの朝鮮半島出身の
日本列島への移民の経路と、これらの人たちが日本の文化と社会の発展に寄与したことを、
朝鮮半島からの「渡来人」の活動状況を通じて集中的に探求する。
ー中略ー

 今年上半期に出版された中堅考古学者の慶北大学のパク・チョンス教授の力作である
『古代韓日交流史』(慶北大学出版部)も同様に、
伽耶・百済・新羅からの文化伝播が4~6世紀の日本の古代国家成立の軸になったことを、
考古学的な発掘の成果で論証した大作だ。
3~5世紀の日本列島と隣接した朝鮮半島南部の伽耶圏の文化が日本との交流の主軸であり、
金官伽耶と大伽耶の順に交渉の主体が移り、その後、新羅の伽耶吸収によって百済に交流の中心が移ることになる過程を、
パク教授が渉猟した日本各地の詳細な考古学的な発掘成果を通じて論証して展開していく。
日本とは敵対的な関係に変わったとされている新羅の日本との交易や文物交流は、通念とは違い5世紀以降も活発に継続し、
百済滅亡後は、唐に対応する両国の外交的な必要によってよりいっそう深まったという事実を、
日本各地の新羅系古墳遺跡の事例を通し示しており、注目される。
ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

登録:2023-10-10 06:10
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48030.html

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